甲子園の海を守る戦い

「甲子園浜」、浜辺の長さは約1,8km、干潟と磯、砂浜の三要素がそろう、大阪湾でわずかに残る貴重な自然海岸。 昭和40年閉鎖されるまで海水浴場としてにぎわったという甲子園浜の面影はもうない。しかし、渡り鳥が飛来し、家族連れがカニを追いかけ砂遊びをし、浜から竿を出す釣り人もいる、このような現在の甲子園浜は、住民運動によって守られなかったら、消え去っていたかもしれないのだ。住民がどのように戦ったか、甲子園浜埋立公害訴訟原告団発行「甲子園浜を守る−イソガニは戦った」よりその足跡をたどる。

その1 運動の発端—それは学級PTA

 昭和46年1月の「西宮市政ニュース」に甲子園浜の埋立計画が報じられた。海面は陸地に、渚はコンクリートの岸壁に変わり港になって、工場用地が作られ湾岸道路が貫く計画だった。南甲子園公民館で「甲子園浜埋立計画説明会」も開かれた。住民たちは、「あの浜辺がなくなるのか、いやだなあ、寂しいな」と受け止めるにとどまっていた。

 昭和35年池田内閣の国民所得倍増計画、39年東海道新幹線開通、東京オリンピック開催を経て、イザナギ景気をむかえ、まさに経済大国への道を進んでいる時代であった。44年東名高速道路開通、45年大阪で万国博覧会開催。すでに大阪湾は岸和田市、堺市、大阪市沖が埋め尽くされ、広大なコンビナートが形成され、兵庫県瀬戸内海沿岸も、姫路、高砂、加古川、播磨の各沖が埋め立てられ、神戸港も六甲の土砂で拡張され、尼崎、西宮、芦屋の浜が残るのみであった。これを埋め立て、大規模な工業団地を構築しようとする構想である。

 甲子園浜の埋立計画では、南甲子園小学校の給食室と運動場が道路の拡幅によってけずられ、プールの上を高速道路が通ることになっていた。夏休み後の学級PTAで、これが母親たちの話題になった。「計画を黙ってみていてはならない」「子供のために、地域の未来のために、私たち母親が立ち上がらなければ」「PTAとして埋立反対に取り組むことにしたらどうでしょう」という声が上がった。しかし、「すでに着工している今となって反対と言っても、変えられるものではない」「この問題はPTA活動の範囲を越えるものだ」という声もあった。それでも「学級PTAから出た意見を大切に、子供たちの教育環境を守るのは親たちの願い」であるということで、PTAの重要な活動として取り組むことが役員会で決定された。

 

埋め立て問題だけの学級PTAが行なわれることになり、尾埜善司PTA会長は「甲子園浜埋め立ての恐るべき実態」を書き、学級委員が色鉛筆で塗り分けた千枚の「阪神(尼崎・西宮、芦屋)港湾計画図」が配布された。まだワープロもパソコンもなく、ガリ版刷りである。手作りの活動の原点となった。

 昭和46年10月15日学級PTA。学級参観の後、異例の埋め立て問題のみにテーマをしぼった集会に、いつもの倍の出席率であった。発言を求めて次々と手が上がる、これも異例であった。そしてPTAとして埋め立て問題に取り組むことが、どの教室でも拍手を持って決定された。

  PTAは精力的に活動を広げていった。昭和47年、東甲子園小、浜甲子園小を加えた三PTA、南甲子園小学校区の八町会、三団体で「甲子園埋立公害対策委員会」が結成された。ひと月半で25,617名の署名を集め、市議会、県議会、環境庁への請願、陳情を行なった。住民に訴え運動に協力してもらおうと、手作りポスターを貼った。各新聞にも「社会問題にPTAが立ち上がった」ととり上げられるようになった。しかし簡単に行政側が計画を変更するはずもなく、次第にPTA組織の運動に限界を感じるようになって来た。

その2 運動は住民運動へ発展

 甲子園地区PTA、自治会が主体となった「甲子園埋立公害対策委員会」であったが、当初の期待に反し、地元では、地域の開発と高潮防災を優先とし埋立を推進する町会長もいて、埋立問題に対する意識のまとまりは無かった。

 南甲子園小学校PTAで活動してきたお母さんたちは、自分たちで組織を作れないかと、新たな行動をおこした。校区の約九百世帯、1300人の会員を集めて、「甲子園浜の埋立を考える会」が、発足した。昭和50年10月5日結成集会において、「生活環境をまもるため埋立問題についてともにじっくり、しかし手遅れにならぬよう考え、話し合い、将来に責任ある行動をしよう」と宣言した。PTA組織を越えた住民運動へと拡大したのだった。

 甲子園浜の埋立は、阪神間湾岸地域開発基本計画に含まれていた。しかし、環境保全の立場から計画の再検討を迫られ、西宮市が対案づくりを進めていた。すでに鳴尾・西宮両地区の対案はでき、甲子園浜の対案だけが未定であった。

 12月25日その対案が発表された。埋立計画の大部分は下水処理場用地になり、港湾埠頭用地は前計画通り広大なままであった。また対案が環境アセスメント(環境影響評価)なしでまとめられていることに「考える会」は強い不信を持った。

市役所に座り込み100日

 市対案を県へ送らないよう考えてほしいとの陳情書を市長に渡そうと、「考える会」は毎日市長室に足を運んだが、忙しいとの理由でことわられ、市長直々にお願いしようと廊下で待っているうち、自然発生的に座り込むようになった。51年4月13日だった。15日には市長と会い、要望書を手渡すことができたが、1週間後の22日、対案は県に送られてしまった。

 これは長期の覚悟がいると皆で相談し、子供が登校している間、毎日10人ほどの主婦が交代で毛布を持って市役所に通い、座り込んだ。毎日市長宛に要望書を書いて帰った。5月1日まで続いた。

 平行して、「甲子園浜は生きている」ことを証明しようと、甲子園海浜の生態調査を行い、砂浜、岩場に生息する生物や自生する植物の採集をし、漁船をチャーターして海中の生物を調べもした。その結果、甲子園浜の干潟は大阪湾に数少ないシギやチドリの渡来地で、渡り鳥の楽園であること、砂浜には珍しい海浜植物が多数生育、海にも貝やカニ、魚などがいっぱいいる学問的にも貴重なすばらしい場所だと知った。

 5月10日再び座り込みを始め、7月21日、子供の夏休みに合わせ中止し、9月1日また再開した。母親らしい自然体であった。  9月28日、阪神県民局仲介による懇談会がもたれ、西宮市助役が、市も住民と同様説明会を県に要求していると発言したことを評価、100日に及んだ座り込みを中止した。

 52年2月28日、甲子園浜をべた埋めにするという当初の計画から、140mの水路を開けるが砂浜は埋め立てると修正された県案が、県の港湾審議会で環境アセスメントなく承認され、住民たちは新たな手段を模索した。

その3 やむにやまれず訴訟へ

 座り込みをしながら主婦たちは、次の運動の手段として「訴訟しかない」と感じていた。それは、行政側が一方的な説明会をするばかりで、資料も出さず、きちんと議論をしようとしない状態では、対等ではないと感じたのであった。住民は運動をつづける中で、行政と対等な立場で議論したいと思うほどに力をつけていた。

 「甲子園浜の埋立を考える会」では、まず津田泰男氏に原告団長をお願いした。また運動当初から大きく関わりを持ってきた尾埜弁護士に弁護団長を依頼すると、類いまれな大公害予防訴訟に16名の弁護士が無償で加わり、弁護団が形成された。その上で地域住民に原告を募ったところ、実に2004名の大原告団が組織されるにいたった。

 
2004名の大原告団による港湾計画取消行政訴訟

 昭和52年10月16日、訴えの現場である甲子園浜に原告団が結集し、結団集会が行われた。翌10月17日原告代表と弁護団は、神戸地方裁判所に2004名の訴状を提出した。これまで裁判等に関わりを持たなかった一般市民による、やむにやまれぬ反公害訴訟の幕開けであった。訴状には「いったん破壊された環境の回復は困難であり、抹殺された海の回復は不可能である。よって原告らは、未来の世代に対し責任を果たそうとする立場から、止むなく本訴訟を提起」するとうたった。

 
第1回公判からの長き戦い〜法廷での歌声

 52年12月22日第1回公判の口頭弁論から始まった裁判で、被告兵庫県は、訴えの却下を求める答弁書を提出、全面的に争う構えを見せた。つづく53年2月第2回公判、4月第3回公判、6月第4回、9月第5回、11月第6回、さらに57年10月の第25回公判へと長い戦いがつづくのである。また訴の却下,すなわち門前払いを主張する県に対し,裁判の終結を防ぐ戦略として,関連訴訟や民事訴訟、訴えの追加を行なうなど、弁護団は前例のない発想をもって対処した。

 54年7月3日第9回公判、傍聴席は原告住民でびっしり埋まっていた。原告側弁護士の弁論が行なわれていた。「法益侵害の具体性と本件計画取り消しの必要性……原告ら住民は甲子園浜近くに住み,その良好な環境を住民自らの努力によって築いてきた……」と述べる弁護士は、「さざ波がひいたその後に…」と歌いはじめた。すぐに原告たちのあいだにも無意識にハミングが広がった。「静粛に,静粛に!」裁判長が制止した。当日に出された原告の準備書面の冒頭に,あの甲子園浜の歌『子どものために』の歌詞と楽譜が掲げられていたのであった。

運動の資金づくり

 弁護士たちは手弁当で,交通費等も自弁であった。それでも裁判費用の印紙代,傍聴のバス代、コピー代等資金が必要だった。原告団は月額ひとり百円,考える会は五十円、他の公害運動グループからのカンパ等があったが、さらに,春夏の高校野球開催時には,露天商の許可書をもらって、たこ焼きや記念ボールなど土産物、オリジナル絵はがきを売った。傍聴に行くバスの中でも下着やソックスを売った。大変ななかでも、みな楽しんでいた。

甲子園浜、鳥獣保護区に指定

 考える会は、51年5月国会へ『甲子園浜を鳥獣保護区に指定すること』を求める請願書を提出し、衆議院、参議院ともに満場一致で採択され、環境庁(当時)の公聴会を経て、53年11月1日、甲子園浜鳥獣保護区,特別保護区に指定された。これで埋立が中止されるわけではないが,甲子園浜の貴重さが認められた証しであった。

その4(最終章) 和解への道

 住民の反対は,阪神間に残された甲子園の海辺を守れ、という環境保護のためで,都市生活と海辺の憩い、あるいは都市の自然環境保全と港湾機能の整備などについて問題を提起した意味から、全国的に関心が持たれていた。

埋立問題解決のための市長提案

 西宮市は、全市下水道整備を市政の最重要課題としており、甲子園地区埋立地に大規模な処理場の建設を予定していた。そのため、埋立公害訴訟裁判の長期化のなか、当時の奥市長が「埋立問題の解決を図るための市長提案」を示してきた。最初の提案は54年7月、しかし最もいちじるしい公害源の港湾計画は変更しないというもので、原告団はこれを拒否。市は、提案の手直しをし、同年12月坂井兵庫県知事に宛て、「埋立問題解決のための要望意見書」を提出した。港湾計画のうち、浜に計画した学校群用地の埋立削除、沖地区北側部分の埋立縮小、土地の具体的利用を市と十分協議するなどの検討を県に求めた。これに対し県は、基本的には地元自治体あるいは住民の主体性を尊重したいと答弁した。

曲折をへて和解へ—甲子園地区埋立事業対策協議会

 奥市長が55年10月急死。選挙により八木市長が誕生し、56年8月西宮市と原告、弁護団の会談が再開された。西宮市が県と住民の間で調整を進め、埋立計画を当初の157㌶から80㌶に半減したり、西宮防波堤以北は新たな埋立はしないなど、現実的な解決への道を開いていった。原告団も、市北部の人たちから下水処理場建設に対する要望が出ていたこともあり、譲歩することとなった。合意条件の履行監視のため「甲子園地区埋立事業対策協議会」をつくって、和解による計画実施にあたり、地域住民の事前チェックによる合意がないと工事が出来ないという具体的な方式がとられたことは、大きな成果であり、その後の住民運動へのひとつの手本となったのではないだろうか。

和解成立

 昭和57年12月28日、甲子園浜の埋立訴訟は,合意書に調印し、足かけ6年で和解となった。

 昭和42年運輸省(当時)が尼崎、西宮,芦屋の港湾整備の計画を作り、46年西宮市政ニュースに甲子園浜埋立が報じられ、同年南甲子園小学校のPTAが埋立反対の声を上げた。52年兵庫県の西宮・甲子園地区の埋立計画に対して、地元の住民2004名の大原告団が、計画取り消しを求めて提訴。阪神間の海辺が人工化されていくなかで、甲子園浜を残したいという住民の環境意識の高まりの結果の住民運動が、生活環境、自然環境および教育環境の保全に大きな役割を果たしたのだった。

 【甲子園の海を守る戦い】は『甲子園浜を守る−イソガニは戦った』西宮甲子園浜埋立公害訴訟原告団 より抜粋編集

  • 1929 鳴尾村地先公有水面埋立認可
  •    以後1980年代まで埋立続く
  • 1965 甲子園浜、香櫨園浜遊泳禁止
  • 1970 尼崎・西宮・芦屋など7漁協が埋立に合意
  • 1971.1関係住民埋立計画を「西宮市政ニュース」等で知る
  • 1971.7西宮、甲子園地区埋立工事造成工事に着手
  • 1971.9南甲子園小PTA甲子園浜埋立公害に反対表明
  • 1972.11甲子園埋立公害対策委員会結成
  • 1973.9西宮市議会「西宮地区の埋立を即時中止せよ」の意見書を満場一致で採択
  • 1975.10「甲子園浜の埋立を考える会」発足
  • 1976.4「考える会」市庁舎で座り込み闘争に入る
  • 1977.6運輸省、中央港湾審議会の答申に基づき兵庫県に甲子園地区の埋立計画を認可
  • 1977.10西宮甲子園浜埋立公害訴訟原告団、神戸地裁に「港湾計画の変更」を求め提訴(原告2004名、弁護団16名)
  • 1977.12第1回公判
  • 1978.11環境庁、甲子園浜を鳥獣保護区・特別保護地区に指定
  • 1979.7第8回公判、民事訴訟追加
  • 1981.8八木西宮市長,原告団に対し和解案提示
  • 1982.12和解成立
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